教会エンジニアの開発日記

Webアプリの開発を生業としたクリスチャンです。

人は病だと思うとちょっとだけ優しくなれる。

こんにちは。

教会エンジニアのSatoruです。

 

今回はちょっと重めかもしれない思想系の話です。

 

病名や医療系の話になったりもしますが、

専門家ではない、ただのエンジニアが綴っているブログなので

情報的に誤りがあればご指摘お願いします。🙇

 

 

 

先日(とは言っても結構前に)

 

ふらっと本屋に立ち寄ったときに

 

こんなタイトルの本を目にしました。

 


人は、なぜ他人を許せないのか?


脳科学者である中野信子さんの著書「人は、なぜ他人を許せないのか?」でした。

 

 

ですが、すみません。

 

これを読んだわけではなく、

 

強烈なタイトルだったので

さっと目次だけを読んで

なぜなのだろうと自分で考えてみる機会にしました。

 

 

なぜなのかと言われたら

そういう生き物だからとしか言えないですが、

 

どうしたらいいのかを考えたときに

一つ浮かんできたキーワードは「病(やまい)」でした。

 

 

重要な用事などをすっぽかしたり、

 

忘れ物も多かったり、

 

落ち着きがない部下を見た時

 

一番最初にシンプルに怒りの感情がわきます。(僕は)

 

 

さすがに言わないけれど

 

「なぜすっぽかすんだ!」

「なぜ忘れるんだ!」

「落ち着いていられないのか!」

 

と心の中で思ったりしますが、

 

 

 

でも、一言

「彼ADHDなんです」

と言われたら

 

 

「あ〜ならしょうがないか」

と思えます。

 

 

そして次に取る行動は

 

すっぽかさないようにリマインダーを設定してあげたり、

 

忘れないようにメモするなり、手に書くなりして、

 

長時間の会議は区切って参加させたりすると思います。

 

 

このように人は病だと認識すると少し優しくなれます。

 

 


以前は病と聞くと、

 

具体的な病を想像すると思うんですけれども

 

最近は精神的な病も多いですよね。

 

 

特にこのコロナ禍では考えさせられます。

 

コロナウイルスにかかって肉体の病に至る人もいれば、

 

コロナウイルスが直接的な原因ではなく、

コロナ禍という環境で、

外に出られない中で、

ストレスを抱え、

誰にも相談できず、

精神的な病を患っている人もいます。

 

 

他にも精神的なストレスが原因で内蔵系を痛めてしまうなんてこともあります。

 

 

そういうことを考えると、

 

 

病という言葉はもはや肉体よりも、

精神的なことのほうが多くなってきているんじゃないかと思ってしまいます。

 

 


しかし、そういった現代の病は昔は当然なかったわけです。

 

古代の病気というのは、ほとんど全てが肉体的な病気でした。

 

食事を取るのが決して容易くはないので、

栄養失調になり、

汚いものを洗えずに食べて病原菌に感染したり、

最悪の場合、餓死したりもしました。

 

 

ただ、毎日自分のすべきことが明確なので精神的に困苦に陥る状況は少なく、

 

食事を確保することで一生懸命で、

寒い冬を乗り越えることで一生懸命で、

子孫を残すことで一生懸命だったりしたわけです。

 

民族的な繁栄を願うことが当たり前に人類の目的だったわけですけれども、

 

 

それがいまは78億人にもなって叶った今、

 

多様な生き方、多様な考えが溢れ、

あれこれ考えるわけです。

 

 

「自分って何なんだろうか」

「自分が生きる意味とは何だろうか」

 

 

時間の余裕が生んだ精神的にものすごいエネルギーを使う課題に取り組むわけですね。

 

 

 

生活が安定したことで時間に余裕ができ、様々考えることが増えて、精神的な病が増えているのが現状だと思っています。

 

 

 

 

これをもっと広く捉えてみると

 

例えば

過度に心配してしまう人、これを病名で言うと強迫性障害と言ったりします。

 


でも、心配がない人はこの地球上にはいないですよね。

 

 

 

であるならば、強迫性障害(心配性)というのは、全ての人たちがかかっている病とも言うことができると思います。

 

 

それがある事象によって、大きくなったり小さくなったり、

またある人によって軽症だったり重症だったりします。

 

 


重症の場合に、

実際にその病名が医師から告げられて

初めて自分がそういった病気であるということを

自覚できるわけなんですけれども、

 

 

軽症の人たちは、

自分自身で気づく術がないですし、

軽症ゆえに軽視されがちですけれども、

人は誰しもそういう側面があります。

 

他にも、

嫉妬深かったり、

怒りっぽかったり、

寂しさを感じたり、

 

そういった精神的に不安定な事象が多くなってきていると思います。

 

 

そういったことを病だと認識するだけで

すごく楽になったりします。

 

 

自分も例えば

人前に出ると緊張してしまって

うまく振る舞えないのですが、

 

そういったことを、そういう病なんだと認識してみると、

心がすごく楽になります。

 

嫌いでコンプレックスだった自分の弱点を

認められた気がして、

 

病人なのだから労ってあげよう

病人なのだから気遣ってあげよう

 

と、そういう心が生まれます。

 

 

これを最初の例に出したとおり

他人にもその目線を向けてみると、

 

「なぜ〇〇なのだろう」と怒りの感情を出す前に

そういう人、そういう病だと思えばちょっとだけ優しくなれます。

 

 

そして優しくなるだけでなく、

なぜそうなのか原因を探求しようとします。

 

「〇〇の情報が足りなくてできないのかも?」

「乱れた生活習慣から来ているのかも?」

「もしかしたら幼い頃の失敗体験がそうさせているのかも?」

 

 

根本を探ってみると、

彼が決してやりたくなくて、

やっていないのではなく、

 

本当にできなくて、

あるいは本当にわからなくて、

 

何かその仕事を行う上で

必要な情報、経験、スキルが欠けていてできないことがほとんどだと思います。

 

 

原因解明できたら、対処法がわかります。

 

こういうことを教えてあげればいい

彼の場合はここまで説明してあげればいい

ストレスがないようにしてあげればいい

 

 

そうして、本人の意思をわかってあげることでき、労ってあげることができます。

 


人は病だと思えば、少しだけ優しくなれるのです。

 

だから、

様々な社会の中で起こるストレス、

あの人はこうだ、この人がこうだ、

そういう言葉をそういう病だと変えてみると、

 

あのスキルがないから

あの経験がないから

あの知識がないから

彼もただそうなっているだけで、

 

 

本人に必要なのは、なぜできないのか、そういう攻め立てる言葉ではなく、

治療薬だということがわかります。

 

 

あとクリスチャンなので一言言わせてください。

 

 

これを実践されたのが

イエス・キリストでした。

 

自分を迫害し、十字架にかけようとする人のために

 

23:34そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。

ルカによる福音書 22:32

 

と言いました。

 

 

迫害し、十字架にかけようとする人の立場になって考え、

わからずに行っているのだから許してほしいと哀願しました。

 

 

僕が思うに彼らは「無知の病」にかかっていたのです。

 

 

普通ならなんでこんなことすんだ、ふざけんな!って感じですが、

 

無知の病にかかっているから

可愛そうだと思って

彼らのために祈られたんですよね。

 

本当に次元の高い方だなと思います。

 

 

 

ちょっと話逸れましたが、

 

「人はなぜ他人を許せないのか?」という問題提起から

自分の考えがあれこれ進みました、という話でした。

 

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。